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クアラルンプール 半径15メートルのアート

Chiew Ling in Kuala Lumpur, Malaysia

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なぜかルーマニア

突然なぜかルーマニアである。ルーマニアに違いない。青・黄・赤の鮮やかな三色旗だ。隣国のブルガリア、あるいはセルビアを訪れたのはいつのことだったろうか。美しく青きドナウの最下流域を擁する国。長きにわたる独裁政治の負の遺産に今なお苦しむ国。美しい修道院・教会の国。野良犬の跋扈する国。古い吸血鬼伝説の国。

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いや、あるいはチャドかもしれない。アフリカ中央部やや北に位置する内陸国。ルーマニアと瓜二つの、こちらも青・黄・赤の三色旗。こちらは一応共和政を敷いているが、国際社会から事実上の独裁国家と指摘されることもいまだ多い。アメリカのシンクタンクによる「失敗国家」ワースト常連国。首都「ンジャメナ」はしりとりにおけるジョーカー的存在としても知られる。

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しかし考えてみれば、三色旗を国旗として戴く国だからといって、ふつうの街中のそこかしこにそれがはためいているということもあるまい。日本でも、せいぜい正月や祝日となれば時折日の丸が見られるという程度である。

では、このあちらこちらに三色旗がはためいている奇妙な街はいったいどこなのか。曇天の下、よく見れば喫茶店や書店などが軒を連ね、日本の都心の街並みのような雰囲気も醸し出している……。

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そしてクアラルンプール

そんな幻影を見ながらバスにまどろみ揺られたのもつかの間、あっという間に降車の時間となる。インドネシアに続いて訪れたのは東南アジアを代表する大都市・シンガポールだったが、さらにそこから国境を越え、陸路をバスで約5時間。たどり着いたのはクアラルンプールだ。

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クアラルンプールはマレーシアの首都。東京にもひけをとらないほどせわしない都会であるシンガポールよりは、ずいぶんのんびりした時間が流れている。それでも「マレーシア」から漠然とイメージする雰囲気よりははるかに活気に満ちている。表通りには車が行き交い、裏通りには人がごった返す。古くから交易の要衝であったことの面影は今も残り、マレー系に加えて中華系・インド系、その他の人種が渾然一体となっている。同じく東南アジアのイスラム教国家であるジャカルタに比べても、より漠然とした「アジア」の混沌をそのままに表現しているのがこの街だ。

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特に目立つのが華人系の人々、さらにはその文化だ。シンガポールあたりから顕著ではあったのだが、街中にデカデカと漢字の看板が掲げられているというのは相当のインパクトだ。確かに中華系の移民はだいたいどこの国にも存在するのだが、中華圏の文化がその土地の文化と分かちがたく結びついている様子というのは久々に感じる。ニューヨークのチャイナ・タウン以来だろうか。

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グラフィック・アーティストのチューリンは、そんな華人系マレーシア人のひとり。Web上で偶然見つけた彼女は、かなりユニークなアートをやっている模様。それは「葉っぱ」を使ったもの。紙にペンで描いたイラストと「葉っぱ」を組み合わせることで完成する、一種のトリックアートだ。インターネットで発見したそれは、妙に肩の力が抜けていながら同時に繊細さをも感じさせる、不思議な感触のものだった。連絡を取ってみると、割と気軽に取材を受けてくれるし、実家暮らしの自宅にも招き入れてくれるというから、さっそく彼女のもとへ向かうことにする。

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多くのアジア新興都市と同じく、というか東京のような「どこまでも終わらない都市」のほうが異常なのだが、電車に乗って少し経つと車窓の景色は「いかにも郊外らしい郊外」といった様相を呈し始める。クアラルンプール中心部の景色など、ここ20年ばかり「東南アジア」のイメージがアップデートされていない人は目を白黒させそうなほどの先端都市っぷりを見せてくれるのだが、そうではない「のどかなイメージのほうの東南アジア」は都会のわりとすぐそばに今もある。ぐにゃりと生ぬるい空気の中、排気量少なめのバイクが、ばかでかいわりに情けない響きの音を立てながら、どちらかというとのろくさとしたスピードで去っていくイメージ。でも土ぼこりは立たない。道路はしっかり舗装されているし、小綺麗だ。

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緑豊かに整備された運動公園に面して、一戸建ての住宅が立ち並ぶ。アメリカだとか南アフリカとかで見たような、建物が敷地の半分程度しか占めていないような広々とした一戸建てではない。どちらかというと実にアジア的に、住宅たちは「ひしめいて」いる。さほど真新しいとはいえない、たぶん築30年だとか40年だとか、そういったどちらかといえば古い家屋。なんとなく沖縄を思わせるようなところがある。アジアであり、東であり、そして南。中国とか日本に近しいところがあり、しかも南国風というわけだ。そのうちのひとつ、庭に所狭しと配された植物(だいたい全て緑色)がひときわ目をひく家が、チューリンのお宅。

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少しはにかみながら迎えてくれたチューリンは、素朴で真面目な雰囲気だ。そうであろうことはあらかじめ予想していたのだけど、彼女が家族と暮らすお宅もまた、ごくふつうに素朴だ。「世界の日常はぼくらの非日常」と心に念じて旅を続けてきたわけだが、それにしても当たり前にほっとするような、親しみを感じる家の中。アジアということなのかもしれない。

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のんきな家族と葉っぱのアート

外はのどかな陽気。祖父母の家のような懐かしい感じの家の中で、ふと日本を思い出す。でも考えてみれば今は年末。クリスマスも終わった後というド年末だ。仕事納めや正月の準備などなど、寒空の下でもコートの下に汗をかくほど、人々は忙しく動き回っていることだろう。ここから懐かしく思い出すような日本は、今の季節の日本にはない。そう思うと少し不思議な気持ちになる。

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チューリン家は少なくとも、忙しさなどとは無縁だ。ふつうに週末だからということだろうが、チューリンのお父さんはなんともなしに暇そうにしている。お母さんはどこへ行ったのかとたずねると、「友だちと麻雀」とのこと。ここのところ毎週そうだというからたいそうな熱中ぶりだが、全体としてのんきなことに変わりはない。

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チューリンのアートについて話を聞く。デザイン系の勉強をしてきた彼女は、どちらかというとファッション・服飾寄りの興味関心を抱いている。スケッチブックを見せてもらうと、デッサン人形を用いてけっこう精密なスケッチがなされているし、衣服のデザインだとかパターンの原型みたいなものがいろいろと描かれていたりもする。で、その延長線上というか、スピンオフというか。そのような形で「葉っぱのアート」がある。

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たとえば、紙には人物の頭部だけが描いてある。そして、その下にある種の葉っぱを組み合わせるとあら不思議、葉っぱが豪華なドレスのように見えるのです、といった具合だ。

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シンプルに彼女の作品を見ると、これがけっこうすごい。なにしろ、自然に存在する偶然の奇跡でしかない曲線の成り立ちが、そのままなめらかにアートの中に位置付けられているのだ。さぞ細やかな計算だとか、それと両立するように直感を大胆に働かせるアーティスト的強靭さだとか、そうしたものを秘めた人が制作したのだろうな、という気がする。

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半径15メートルのアート(あるいは革命)

ところがチューリンは違う。違うというか、少なくともそれを感じさせない。アーティストを相手にする場合にありがちな「それらしい」質問を投げかけてみても、「暖簾に腕押し」感が漂ってくる。もちろん彼女は真剣に答えてくれるし、率直に語ってくれるのだけれど、その率直さから見えてくるものがこちらを唖然とさせるのだ。

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たとえば、「作品に使う草はどうやって見つけてくるのか」という質問。「野原や山に分け入って行き、ピンとくる草・インスピレーションを掻き立てる形が見つかるまでひたすら探し続ける」みたいなことをちょっと期待してみるのだが、それは無残に打ち砕かれる。曰く「そこの公園でてきとうに採ってくるの」。そこ、というのはまさに玄関の目と鼻の先。ここから直線距離でだいたい15メートル先ぐらいにある、そこだ。

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だいたいにおいて、アーティストという人々は、自己の内面を掘り下げた結果であれ、後付けの論理であれ、一定程度自分のアートを説明する文脈というものを持っている。程度やタイプの差こそあれ、今までのインタビュイーは皆そうだった。

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でも、チューリンを安易にそこに当てはめてはいけない。彼女の場合「草をつんできた」「絵と組み合わせてみた」「いい感じになった」ということがシンプルに起こったのだ。それ以上でもそれ以下でもない。肩に全く力が入っていないし、解釈や言語化というプロセスを経ていない。だから、インタビューらしいインタビューにならないのだ。小慣れたつもりのこちらが愚かだった。彼女は天然か天才か、とにかくそういう存在なのだ。

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天然・自然というと英語では「ネイチャー(nature)」。これは「アート(art)」の対義語にあたる。アートというのはもとをたどると「人の営みにおける技術・技」ということ。これらを互いに背反する概念でなく、白と黒のように間にグレーゾーンがあるのだと考えると、彼女の場合は「限りなくネイチャーに近いアート」という感じがする。と、このようなややこしく理屈っぽい説明も、彼女のシンプルさの前ではあまりにちっぽけに思えてくるのだが。

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いかにも、という「アーティストの暮らし」ではなく、ごくごく素朴なふつうの暮らしのなかでアートを生み出しているチューリン。「彼女の暮らしを紐解いていけばそのアートの根源に迫れるかもしれない」という感じはまったくしないのだが、それとは裏腹に、わりと単純な興味として彼女の暮らしが気になってくるのも確かだ。

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この家に足を踏み入れたそもそもの最初からずっと気になっていたモノがある。外ののどかな空気から滑らかに連続した、このちょっと古ぼけた、生活感あふれる、そして親しみ深い家屋の中にあって、明らかに異質というか不似合いな物体が、でんと置いてあるのだ。ぎらぎら、というか「金ピカ」に輝く縦長の物体。しかしその形状、置かれた果物や植物、とりあえずどういう種のものなのかはわかる。仏壇の一種だろう。

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宗教的な話というのは相当にセンシティブだから、インタビューで触れざるを得ない・触れるべきだろうという場合にはかなりしっかりとした準備をしていく。それは知識においても、心構えにおいてもだ。ところが今回は、イスラム教国としても比較的世俗的とされているマレーシアだし、おまけに華僑系のインタビュイーということで、まったくそちら方面の準備がなく、けっこう面食らってしまった。

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面食らいながら色々話を聞くのだが、その中で彼女は自分の本棚を見せてくれる。「けっこう日本のものもあるの」とのこと。どれどれ、と見てみると、藤沢とおる『GTO』。ドラマ化も人気を博した、少年マガジンの人気マンガだ。なるほど。さらには、村上龍『接近無限透明的藍』。すなわち、あの鮮烈なデビュー作『限りなく透明に近いブルー』だ。中国語であっても意味はわかる。というか、そう、チューリンにとって中国語は母語だし、読書なんかは基本的に中国語(繁体字)というわけだ。こんな本棚だけを見てもいろいろな発見がある。

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しかし、さらなる発見をもたらす本があった。それこそ、『幸福抄』。なんと……! たしかによくよく見てみると、同著者の作品が、この本棚にはもっとも多い。世界中の数多の大学・教育機関から名誉ナントカの称号を受け、その度に特定の新聞において大々的に取り上げられ賞賛される大人物である。どういうわけか日本国内では827万世帯の人々に神格視されて崇められている、ということになっている、偉人なのかもしれない人物。世界でも勢力を拡大しているのは知っていたが、こんなところでお目にかかるとは。なるほど、あの仏壇。マレーシアでも順調に、人間は革命されているのだ。

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いちおう、チューリンにそれらの書籍の感想を聞いてみた。すると「ふつうにいいこと言ってると思う」とのこと。半径15メートル的に隙がなく、素朴で、「それはそうなのかもしれないな」というような感想を得ることができた。

現場からは以上です。

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